ブキバトの忠霊塔(5)と旧フォード工場
引き続き時差投稿…
2020年10月、ブキバトの忠霊塔と旧フォード工場を訪問。
ブキバトの忠霊塔といえども今はもうない。
アッパーブキティマロードからSesuai通りへ入る。
これが目印。
ここから延々坂道を登っていくとまずこれが。
英語での説明板。
「昭南島忠霊塔」
あなたは今かつて昭南忠霊塔ー神社と第二次世界大戦中に戦死した日本兵を讃える戦争記念碑があった場所の付近にいる。
日本軍の最高司令官であった山下奉文がシンガポールの戦いで殺された日本兵を偲んで建設を命じた。
あたり一帯では日本軍と連合国軍で激戦が繰り広げられた場所の1つ。
近くにはパーシヴァル陸軍中将が1942年2月15日に無条件降伏をしたフォード工場がある。
1942年4月末、およそ500−800名の英・豪戦争捕虜が地ならし、駐車場作り、忠霊塔までの階段建設のためにチャンギ収容所より駆り出された。
「昭南忠霊塔」と名付けられた記念碑は40フィートの高さの円柱形の柱で、先端は真鍮の円錐。
セメントと土で作られた2層のプラットフォームの上に建てられ、2つの砂利道が走り、木造フェンスで囲われていた。
また瓦屋根の小さな神社も忠霊塔の足元に建てられ、戦死した日本兵の遺灰が祀られていた。
すぐ後ろには、戦死した連合軍兵士を偲んで質素な10ftの十字架も立てられた。
忠霊塔は1942年9月10日に除幕された。その後3年間にわたり、戦死した日本兵を弔うための祭礼が定期的に行われた。
今日、121段の階段とLorong Sesuaiと名前が変わった参道を除き何も残っていない。モニュメントがあった場所にはテレビ電波塔が立っている。
だそうです。
階段の途中、お馴染みの石碑がど真ん中に埋まっている。
アップ
こちらの石碑よりも最初の英語の説明書きの方が詳しく書いてあるのでそっちを訳した次第。
そしてこちらがすぐ近くにある旧フォード工場。
ロゴがおしゃれ。
中の展示については掲載しないが、かなり詳しく、そして冷静に解説されている。
今回は時間が押してしまって、全ての展示を見ることができず。。。また行かなきゃ。
1つびっくりしたのがレオナール藤田(藤田嗣治)の絵があったこと。
猫の絵のイメージしかなかったので…
Wikipediaによると
1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。
その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。
その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けた。
南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。
このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。
また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。
その後、1945年11月頃にはGHQに見いだされて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。
だそうで。