猫、タイ暮らし、時々旅行

猫を覗く時、猫もまたこちらを覗いているのだ

ブキテマ攻防戦(6)

またまた時差あり投稿。こちらは2020年10月末にブキティマ山に行った際に立ち寄ったもの。

ブキティマ山に登る際おそらく殆どの人が通るであろう、Bukit Timah Nature Reserve Visitor Centreの

すぐ脇に立っていた。

 

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英語説明がこちら。

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Bukit Timah, which dominates the arterial Bukit Timah and Dunearn Roads leading to the city, was a strategically important point for both the Allied troops and the Japanese.

On the night of 10th February 1942, the Japanese troops from the 5th and 18th Divisions, supported by armour, attacked troops of the 11th and 15th Indian Brigades, the 22nd Australian Brigade, the Special Reserve Battalion, Tomforce, Merrett's Force, the Argylls, Jind State Infantry and "X" Battalion.

The Allied forces had to re-group to defend the critical junctions at Choa Chu Kang, Jurong and Clementi Roads leading to Bukit Timah Road.

By dawn of 11th February 1942, the Japanese troops reported to their commander Lieutenant-General Tomoyuki Yamashitathat they had seized Bukit Timah. The road to the city was open.

 

市街地に通ずる幹線であるブキティマロード・デュナーンロードを見下ろすブキティマは、連合軍・日本軍の双方にとって重要地点であった。

1942年2月10日夜、第5師団と第11師団からなる日本軍は、装甲部隊の支援と共に第11インド旅団と第15インド旅団、第22オーストラリア旅団、スペシャルリザーブ大隊、トムフォース、メレットフォース、アーガイルズ、ジンド歩兵大隊、そしてX大隊を攻撃した。

連合軍はブキティマロードへ続くチョアチューカンロード、ジュロンロード、クレメンティロードの主要な交差点を防衛するため再編せねばならなかった。

1942年2月11日の夜明け前、日本軍は彼らの司令官である山下奉文中将宛にブキティマを制したと報告した。市街地へと続く道がついに開いた。

 

…当時の連合軍に関する背景知識がないからスペシャルリザーブバタリオン、トムフォース、メレットフォースがなんなのかよくわからなくてモヤモヤする。

アーガイルズはどうやらアーガイルアンドサザーランドハイランダーズみたい。

 

日本語の説明はもう少しサラッと書かれている。
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ビジターセンター。出入り自由で、2階にはブキティマ山の自然についての展示がある。
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駐車場から道なりに歩むとこの景色が。ビジターセンターを通り過ぎたところに石碑がある。
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ブキバトの忠霊塔(5)と旧フォード工場

引き続き時差投稿…

2020年10月、ブキバトの忠霊塔と旧フォード工場を訪問。

ブキバトの忠霊塔といえども今はもうない。

アッパーブキティマロードからSesuai通りへ入る。

これが目印。

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ここから延々坂道を登っていくとまずこれが。
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英語での説明板。
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「昭南島忠霊塔」

あなたは今かつて昭南忠霊塔ー神社と第二次世界大戦中に戦死した日本兵を讃える戦争記念碑があった場所の付近にいる。

日本軍の最高司令官であった山下奉文がシンガポールの戦いで殺された日本兵を偲んで建設を命じた。

あたり一帯では日本軍と連合国軍で激戦が繰り広げられた場所の1つ。

近くにはパーシヴァル陸軍中将が1942年2月15日に無条件降伏をしたフォード工場がある。

1942年4月末、およそ500−800名の英・豪戦争捕虜が地ならし、駐車場作り、忠霊塔までの階段建設のためにチャンギ収容所より駆り出された。

「昭南忠霊塔」と名付けられた記念碑は40フィートの高さの円柱形の柱で、先端は真鍮の円錐。

セメントと土で作られた2層のプラットフォームの上に建てられ、2つの砂利道が走り、木造フェンスで囲われていた。

また瓦屋根の小さな神社も忠霊塔の足元に建てられ、戦死した日本兵の遺灰が祀られていた。

すぐ後ろには、戦死した連合軍兵士を偲んで質素な10ftの十字架も立てられた。

忠霊塔は1942年9月10日に除幕された。その後3年間にわたり、戦死した日本兵を弔うための祭礼が定期的に行われた。

今日、121段の階段とLorong Sesuaiと名前が変わった参道を除き何も残っていない。モニュメントがあった場所にはテレビ電波塔が立っている。

 

だそうです。

階段の途中、お馴染みの石碑がど真ん中に埋まっている。

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アップ
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こちらの石碑よりも最初の英語の説明書きの方が詳しく書いてあるのでそっちを訳した次第。

 

そしてこちらがすぐ近くにある旧フォード工場。

ロゴがおしゃれ。
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中の展示については掲載しないが、かなり詳しく、そして冷静に解説されている。

今回は時間が押してしまって、全ての展示を見ることができず。。。また行かなきゃ。

 

1つびっくりしたのがレオナール藤田(藤田嗣治)の絵があったこと。

猫の絵のイメージしかなかったので…

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Wikipediaによると

1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。

その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けた。

南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。

また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。

その後、1945年11月頃にはGHQに見いだされて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。

 

だそうで。

チャンギ海岸での虐殺(20)とサジャハット島(21)

引き続き時差あり投稿。

2020年9月にウビン島へ行った帰りにチャンギビーチパークへ足を伸ばした。

 

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いい天気!海沿い歩いて気持ちよかった。やっぱり海っていいな。

 

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こんな南国な景色をエンジョイしつつ、石碑を探す。

2つ並んでいた。

 

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1つはチャンギ海岸での虐殺について。

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このビーチでか…と思いながら読み進める
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英語記載アップ。

そう、今日は2月18日。

粛清が始まったのも1942年の2月18日。なんたる偶然…
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挿絵
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日本語部分アップ。英語と内容は一緒
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こちらはサハジャット島について。
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英語記載アップ。

ジョホール海峡とセンバワン基地を守るためとあるけど、

日本軍にマレー側から侵攻されたのは想定外だったのだろうか

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日本語記載アップ
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写真あり。今はテコン島と地続きになっているらしい。
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のどかな景色…
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プンゴルビーチとチャンギビーチに足を運んで思ったけど粛清とかきっつい話だなと思う。(語彙力)

当時は中華系シンガポーリアンといえど帰属意識は中国にあっただろうし、

抗日工作員と普通の人の見分けなんてつかないという事情もあったんだろうけど

でも中華系だからってだけで殺された人、そしてその家族の気持ちを思うと肯定できないよねぇ

「仕方なかったんだ」とは言えないよ…

人数に関する議論もあるって話だけど、何千人だろうが何万人だろうが殺戮は殺戮よね

戦争が地球からなくなりますように…

 

アダムパークの戦い(24)(気づいたら5ヶ月経っていた)

9月から資格取得のための修行を始めたため、すっかりこちらがご無沙汰に。

細々と案内板巡りは続けているので、撮り溜めした写真を少しずつ整理していこう。

…何かアプリの編集画面の仕様変わった?

 

2020年9月上旬にリストの24番、アダムパーク近辺へ。

 

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わざわざ赴いた…のではなく、日本人会に向かう途中に寄ったというのが正しい。

日本人会からAdamRoadを挟んで向かい側、少し南下したあたりにこの看板が。

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この辺りが激戦区だった事を考えると、結構すごいところに日本人会って建ってるのね、と思う。

日本人会に足を運ぶ人の果たしてどれだけが、日本人会周辺が激戦地だった事を知っているんだろう。

日本語文だと「侵攻する日本軍」だけど英語だと「Japanese invaders」。

まぁ大意は同じだけど、侵略者って響きはズシンとくる。

日本軍のシンガポール侵攻が1942年2月8日だから、ほぼ79年前の今頃か・・・とか考え出すと、今の平和に感謝せずにはいられないね。

 

 

プンゴル海岸での虐殺(19)とコニー島

引き続き全30の案内板を巡るべく細々と活動中。

先日、ウォーキングも兼ねてNo.19のプンゴルビーチに行ったので記録。

 

North East Lineの終点プンゴル駅へ。

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快晴〜!

Googlemapを頼りにこのルートで行ってみる。

黒と赤の矢印は後述。

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てくてく歩いていく。

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遊歩道の様なところを歩いていく。

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いい感じの橋もあり。日の光が気持ちいい。でも暑い…

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歩いていたら何と行き止まり…ショック。

ここから上の地図の黒い矢印のルートで歩いていく。

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デーン。ここも行き止まり!!!

どうしよう、戻るしかないかなと思っていたら入り口で警備していたインド系のお兄さんが

「右に曲がって少し行って左に紛れば遊歩道に出られるよ」

と。でもその隣の中華系のアンクルは「行けないよ、引き返してぐるっと行くしかないよ」と…。

「いけるよ〜、引き返して迂回したらかなり遠いよ」と食い下がるインド系お兄ちゃん。

 

迷った結果、若いインド系の方のお兄ちゃんを信じて行ってみたら…行けた!

確かに、整備された道じゃなくて草むらを歩く形にはなったけども。

ありがとう!遊歩道に出た景色がこれ。いい感じ!

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走ったり自転車に乗る人もいて、地元民の散策コースになっているみたい。

 

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広々!右手に見えるはウビン島。左に見えるはマレーシア!

 

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おさる発見。

 

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いい感じに静か。そして思ったより海綺麗!

写ってないけど、砂浜から釣りをしたり、子供を泳がせている人がたくさん。

 

モニュメントはマップの終着地点、ジェティーの入り口のところで発見。

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日英内容が一緒なので訳は省略。

本の形のやつ(全20だった頃の)だと英語と日本語で内容違うものもあったけど、

全30に増えてからは同じ内容になってる?

 

こんな綺麗でみんながワイワイキャッキャしてるところで78年前は…って思うと

すごく複雑な気持ち。亡くなった方々のお骨は皆回収できているのだろうか…

奇しくもハングリーゴーストの時期。(≒お盆)

日本人もシンガポーリアンも楽しく過ごせる場所に生まれ変わっているこの場所を見て

ゴーストはどう思うんだろうか。でも亡くなった人はここには戻ってこないか。家族・親族のところに行くよな。

 

ここから歩いていけるコニーアイランドへも足を伸ばして。

堤の向こうがコニー島。

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入り口に7時〜19時のみとの記載。

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進む。

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木々!森!林!

深呼吸して、久々に木と土の香りを嗅ぐ。。。癒されるわ

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子連れのおさる。

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サリンブン海岸上陸ポイント(1)

せっかく島内の戦争石碑をめぐると決めたので、一番とされている地点へ行くことに。

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一番はSarimbun Beach Landing。

ほぼマレーシアだなぁ…どきどき。

Googleマップでも探せば出てくる。

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行き方を検索していざ出発。

シティで190番のバスに乗りブキパンジャンへ。

ブキパンジャン周辺で975番のバスへ乗り換え。

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HDBの中を通っていく、シンガポールならではって感じの景色。


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華人のお墓。お墓って民族性出るからいつも興味深く見てしまう。

バス越しでうまく撮れなかったけど、道すがらにユダヤ人墓地、クリスチャン墓地、ムスリム墓地もあった。


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チョアチューカンを越していくとだんだん軍関係の施設も増えてくる。
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立派な戦車がゲートに。

その後もずっとOld Choa Chu Kang Road沿いにバスは行くのだけど、

ずっと右側が軍事施設だったっぽい。

Google Mapに名前は載っていないけど、滑走路があるから恐らく軍かなと。

 

 

Opp Lim Chu Kang Lane5というバス停で降り、少し戻る。


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あんまり舗装されてない!しかも両脇は立ち入り禁止の看板。

ちょっと不安になりながらも進む。

15分ほど歩いたところで発見。

 

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On this mangrove-lined shoreline, Japanese forces launched their attack on Singapore.

Protected by heavy artillery fire, solders of the 5th and 18th Japanese divisions crossed the Johor Straits in a fleet of small boats on the night of 8th February 1942.

The first 2 waves of the Japanese troops were repelled by Allied troops of the Australian 22nd Brigate. However, the third Japanese wave broke through the Australian defenses to capture Tengah Airbase by the following morning.

 

このマングローブ茂る浜沿いに日本軍はシンガポールへの攻撃を開始した。

重火器

 


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ラブラドール砲台(10)とケッペルハーバー(12)

以前も書いたが、島内20箇所に戦争・戦跡について説明する石碑がある。

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今まで

15:YMCA脇(憲兵隊)

16:キャセイ脇(プロパガンダ放送拠点)

13:チャイナタウン(粛清 大検証)

17:エスプラネードパーク(インド国民軍)

は行ったものの、止まっていたので今日新たに5箇所目&6箇所目へ。

(14番、フォートカニングパーク何度も行ってるのに気づかなかった…どこなんだろ)

ということで

10:ラブラドールバッテリー

12:ケッペルハーバー

へ。まずは電車でハーバーフロント駅へ。

Vivoシティの中を抜けて海の見えるboard walkへ。

はじの方にひっそりと。なんと、本の形をしていないw

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もう少しアップ。

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“ケッペル港は、19世紀後半から国際貿易の海の玄関口として栄えています。

当時ニュー・ハーバーとして知られていましたが、1900年にヘンリー・ケッペル提督に敬意を表して

ケッペル港(ケッペル・ハーバー)と改名されました。

1939年から1940年代初めにかけて、連合軍の兵士が、シンガポールとマラヤの防衛を強化するためにこの港を使いました。

1942年2月15日にシンガポール陥落前には、何千人もの民間人と軍隊がケッペル港を通り脱出しました。

第二次世界大戦中、連合軍は1943年9月26日から27日にかけて、ジェイウィック作戦(昭南港爆破事件とも呼ばれる)を実行し、

ケッペル港に停泊していた7隻の日本戦を破壊しました。”

 

ジェイウィック作戦はナショナルミュージアムに動画があった。

連合軍に情報を漏らした奴がいるのではと疑って、日本軍が捕虜収容所で捕虜やローカルの勤め人を尋問・拷問した、と。

 

今は楽しいセントーサ島を臨み、買い物客がちょっと休憩する憩の場に…幾星霜ってかんじ。

 

そして今気づいてしまったけど…

石碑の数増えてない…?

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ここには30まで書いてある‥マジか…20じゃないのね…

全クリア目指そ。

 

さて、ここから歩いてラブラドール砲台を目指す。

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途中ずっと海沿いで気持ちよかった!

こんないい散歩コースあったのか、、、

 

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波の音が聞こえて素敵。

 

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謎の古めかしい階段。。。

場所的にはケッペルクラブの隅っこだけど。昔使ってたのかな。

 

そしてラブラドールパークへ。

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子供たちが遊ぶすぐ脇にこんなものが。。。

 

ここでマシンガンを撃って敵の上陸を阻止するのね。

 

“It was conceivable that the enemy might land commando-type units along the coast to put the Singapore guns out of action.

Thus the coastal guns had heavily fortified beach defences consisting of machine gun posts, search lights and barded wire. 

Any attempt to enforce a landing would have been very costly in terms of injuries and loss of life.

The machine gun bunker provided protection for the soldiers within.

The conditions in which they operated were very difficult.

The position was generally hot and cramped.

This bunker was sited to protect the 12-pounder guns on Berlayer Point-on the hill right above.

Another machine gun bunker is located behind the public toilet further down, along the foot of the hill.“

 

拙訳ですが…

 

シンガポール側の銃器を無効化するため敵軍が沿岸に奇襲隊を送り込むことが想定された。

かくして、マシンガンポスト、サーチライトと有刺鉄線でビーチの守りを堅固にした。

いかなる上陸実行の試みも、死傷者という点で犠牲の大きいものになっただろう。

機関銃掩蔽壕は中の兵士らを保護した。射撃中の環境は困難なものだった。暑くて窮屈であった。

この壕は、右の丘のBerlayer Pointにある12ポンド砲(おそらくこれ https://ja.m.wikipedia.org/wiki/QF_12ポンド_12cwt艦砲 )を守るために作られた。

もう1つの機関銃掩蔽壕はさらに丘の下をいった先にある公衆トイレの後ろにある。

 

Berlayer Point、おそらくこれのことか。

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丘の上に何かがあるなぁと思って写真撮ってた。

ここに続くであろう道は立ち入り禁止になって、有刺鉄線が貼られていたので行けなかった。

 

っていうか本の石碑どこ?と思っていたらマップ発見。書いてあった。

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さて、一路本の石碑を目指して歩く。

 

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雰囲気のある道を通っていく。ずっとコンクリ舗装されてて歩きやすい。

 

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古くは1878年に設置され、種類やら数やら変更されていったらしい。

でも今の形式に沿う計画書が見つかっていないそうな。

 

もう少し歩みを進めるとついに登場。

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''In 1878 the British constructed an artillery fort on this ridge to defend the western entrance to Keppel Harbour.

On the end of World War II, Fort Pasir Panjang had two large six-inch guns.

These 37-ton guns fired 102-lb shells over a range of 10 miles.

The popular belief was that these guns were fixed to face only towards the sea.

However, they could be, and were, turned around to fire on advancing Japanese troops.

Fort Pasir Panjang on Labrador was one of a series of 11 coastal artillery forts by the British in the 19th century to defend Singapore's waters.

Other forts were on Sentosa, Palau Brani, Fort Canning Park and Katong.

These forts showed how the direction of potential threats to Singapore changed over the years."

 

1878年、イギリスはケッペルハーバーの西側を守るために砦をこの峰に作った。

第二次世界大戦の終わりにはパシルパンジャン砦には2つの6インチ大砲があった。

これら37トンの大砲は102ポンドの弾を10マイル先まで飛ばせた。

大砲は海側を向いて固定されていると広く信じられてきた。

しかし、実際は旋回可能であり、日本軍の進軍へ向けて向きを変えられた。

ラブラドールのパシルパンジャン砦は、シンガポールの海を守るためイギリスが19世紀に11箇所作った沿岸要塞のうちの1つである。

他はセントーサ島、ブラ二島、フォートカニングパークとカトンにあった。

これらの砦はシンガポール攻撃の想定脅威がどのようにして年月をかけて変わっていったかを示している。

 

確かに、日本軍の上陸は島の北西からだったし、そもそも19世紀にはまさか日本と戦争するなんて想像だにしていなかったろうな。

もう大砲を使って戦争する時代でもなくなってきてしまったけど、でもこうして残しておくのは大切。

昔何があったのかを知るきっかけになる。まさに私がやっているように。

長い道のりだけど、でも石碑がある場所全クリア目指そう。