猫、タイ暮らし、時々旅行

猫を覗く時、猫もまたこちらを覗いているのだ

パシル・パンジャン機関銃トーチカ(30)、パシル・パンジャン攻防戦(9)、アレクサンドラ病院(29)…1日で4箇所巡ったよ 後編 (といいつつ結局5箇所)

前回投稿からめっちゃ時間が経ってしまった。というか年を越してしまった笑

 

2021年の2月に一気に4箇所訪れた時の記録。ほぼ1年前か…

 

前編はこちら。

https://paulinasg.hatenablog.com/entry/2021/05/17/133943

 

「リマウ部隊の処刑」ポイントから更にバスで南下し、パシル・パンジャン方面へ。

パシル・パンジャントーチカは戸建てや上品なコンドの並ぶPasir Panjang Road沿い、割と閑静な住宅街の中にある。

シェル石油あたりのバス停で降りて…

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歩いてすぐの交差点にドン
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ぐるりと歩ける様になっています
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お馴染みの看板がこちら。30番です
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Southern Areaの守りの解説。
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トーチカの説明書き。元々イギリスは島の南側からの攻撃を想定していたんだよね、確か。

 

トーチカは、1930年代にシンガポールで戦闘が起こった場合の、イギリスによる準備の一環として、シンガポールの沿岸防衛を強化するために建設されました。

トーチカにはマシンガン(機関銃)が装備されており、それぞれの射界が互いに重なり合い強化されているという戦略的な間隔で配置されています。

パシル・パンジャン機関銃トーチカは、マレー連隊の第1大隊が守った地域にあり、第1大隊は後にパシル・パンジャン・リッジで、侵攻する日本軍と闘いました。

このトーチカは、アレクサンドラ軍用病院や弾薬庫などの主要施設があった南部地域を保護する役割も果たしました。

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ここから更にバスに乗り、「パシル・パンジャン攻防戦」の碑のあるケントリッジパークを目指します。

South Buona Vista Road沿いの入り口から入るつもりで意気揚々と移動したものの、

バス停を1つ間違えて降りてしまった。。。

 

山の中。
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ジャックフルーツ?
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モリモリのバナナ
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ようやく本来入るつもりだった脇道まで戻りました。
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良い眺め!
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丘の上にて発見。
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シンガポールの最後の攻防戦のひとつがこの丘で繰り広げられた。

1942年2月13日、日本軍第18師団はここを守備するマレー連隊、英国第2砲兵連隊、第44インド人旅団を攻撃した。

マレー連隊は48時間にわたり陣地を死守した。最後の生き残りとなったマレー連隊C中隊の数人が持ち場を放棄したのは全滅の直前であった。
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今はベンチもあり、海側へ向かって良い眺めが楽しめる憩いの場に。

ここで激しい戦闘があったとは…

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いい天気…
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そこから帰路へ着くつもりが、頑張ってアレクサンドラ病院までいこうと決意。

徒歩で公園内を抜けていく

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リス!
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バナナの花とBabyバナナ達
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よく「海外のすごい建物」としてTwitterでも話題になるあのコンド“Interlace”

よく指を組むときに"interlace your fingers"っていうけど、そんな感じ
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アレクサンドラ病院へ。いざ来てみたら何度もスポーツ用品を買いに来てたクイーンズウェイSCの近くだった。

もっと早く来れてたな…

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中を抜けてウロウロ。なかなか碑が見つからない
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お!!あった
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石碑全景
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1940年に開設されたアレクサンドラ病院は、1908年ごろに設立された初期のアレクサンドラ兵営病院敷地内にあります。

この新しい軍用病院は、駐屯するイギリス軍が、シンガポールで戦争が起こった場合に備えて増員されたことを受けて開設されました。

戦闘がこの地域に達した1942年2月14日、この病院は日本軍に攻撃され、2日間で約300人の患者と医療従事者が殺害されました。

第二次世界大戦後、病院は再びイギリス軍に占領され、1971年にシンガポール政府に譲渡されました。

病院はアレクサンドラロード病院と改名され、その時点でシンガポールで3番目の総合病院となりました。
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病院までガッツリ攻撃してたんか…とがっくり。

更に1日よく移動しよく歩いた疲れもあり更にがっくり。

何だかとっても疲れて帰宅したのを覚えてる。

ほんと、石碑巡りすればするほど、今の平和な暮らしがいかにありがたいものか身に染みる。

ジュロン・クランジ防衛戦(4)、捉えられたリマウ部隊の処刑(8) …1日で4箇所巡ったよ 前編

またまた時差投稿。2021年2月18日にバス・徒歩で4箇所巡った日の話。

スタート地点はまずジュロン・クランジ防衛戦の碑から。シティからバスで1時間以上かかった…笑

HDBの中にあるとは聞いていたが、ご丁寧に看板が。

 

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おお!と思ってこの看板のあるところをすぐ曲がったら迷ってしまった。

HDBの中をうろうろしてようやく発見。デデン!

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この日はいい天気で、この碑を読んでるだけでふらふらしそうだった
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英語
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日本語
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図を拡大

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ここでイギリス軍が指令を誤解した事が日本軍がイギリスを降伏させることができた要因の1つだよなと。

他にも当時イギリスが対独戦に注力しててアジアが手薄だったとか色々あるとは思うけど…

ここ守れてたら結果は変わっていたのだろうか…どうかな。

石碑のすぐ近くにはこのバス停が…。最初に見つけた案内板で曲がらずにまっすぐ道なりに行ってすぐのバス停。

ここから入ればすぐだった…笑

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ここからバスでドーヴァー方面へ戻る。ドーヴァー駅の南西の方向にユニヴァーシティ・タウンという所があり、

そこのバス停に記念碑があると。

イェール・NUS大学なるものが。イェール大とNUSが共同で設立した人文科学系の単科大学の模様。(Collegeだし)

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この大学の北側のバス停のところに石碑が。

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詳細はこちら。

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処刑された将校達の写真までご丁寧に…
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英語での説明。
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日本語での説明。
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ジェイウィック作戦については国立博物館の展示で知った。

ケッペルハーバーの石碑でも触れられている。

ジェイウィック作戦が成功したのは知っていたけど、それに次ぐ2回目のリマウ作戦があり、

さらには失敗していたとは知らなかった。もしかしたら博物館で読み飛ばしたのかな。

斬首ですか…合掌。

 

この後バスでブキパンジャン方面へ南下。(続)

 

サイムロード・キャンプ(26)と昭南神社(27)

引き続き時差投稿を…

 

 

2021年2月、CNY休みに再びマクリッチーへ。

1周10キロ、良いウォーキングコースなので好き。

 

何度見ても日本を彷彿とさせる橋

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昭南神社、かつて神橋がかかっていた時の基礎(?)
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正面から。
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昭南神社の案内板。メインの歩くコースからは少し離れたサイムロードとアダムロード(とLornie roadの境目)のところにある。
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その隣にはサイムロード・キャンプの案内板。
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泰緬鉄道建設に駆り出される捕虜の一時的な居留地になっていたとのこと。

インドネシアからもシンガポール経由で捕虜が泰緬鉄道建設要員として送られていたのは『思い出の昭南博物館』で知ったのだけど、

アジア各地を転々としながら移送されて…というのを想像すると胸が痛む…

 

奇しくもこの日は2月12日で、79年前のその頃はブキティマやパシルパンジャンで激戦が繰り広げられてたんだったと思う。

そんなことを考えているとあんまり浮かれ気分で歩けない散歩だったけど、毎度ながら今ある平和のありがたさを噛み締めた。

136部隊(林謀盛埋葬地)(7)

またまた時差あり投稿。2020年12月下旬にマクリッチーリザバーへ。

緑が濃いね。

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謎のふわふわの虫。

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昭南神社跡地の近くにある、水門の跡らしきもの。

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しれっと蛇がいてびっくり。鮮やかな緑色が美しい
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今回はセントテレサズホームの方(山道の方)から歩いたので、リンボーセンのお墓までおおよそ10キロ。

3時間くらい歩いた終点のジグザグブリッジのそばにあった。
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「136部隊は、イギリスが組織した特殊工作部隊であり、第二次世界大戦中のマラヤで活動した。

英国がマラヤとシンガポール支配権を日本から奪回するために対日サボタージュを行い、諜報網を確立するために組織された。

諜報部隊の一人であるリム・ボー・セン(林謀盛)は、1943年、136部隊のグスタフV作戦を率いていた。

1944年、彼は憲兵隊に逮捕され獄死した。35才だった。

彼はマクリッチ貯水池のほとりにあるメモリアルで眠っている。」

 

…林謀盛、確か記念碑がエスプラネードパークにもあったような。

と思って調べたらやはりあった。ソースはWiki

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Lim_Bo_Seng

お孫さんはSport  Singapore(体育協会みたいな)のCEOだそう。
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お墓。丘の上にあって眺めが良い。

お墓からの眺め、写真撮ればよかった。

ブキテマ攻防戦(6)

またまた時差あり投稿。こちらは2020年10月末にブキティマ山に行った際に立ち寄ったもの。

ブキティマ山に登る際おそらく殆どの人が通るであろう、Bukit Timah Nature Reserve Visitor Centreの

すぐ脇に立っていた。

 

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英語説明がこちら。

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Bukit Timah, which dominates the arterial Bukit Timah and Dunearn Roads leading to the city, was a strategically important point for both the Allied troops and the Japanese.

On the night of 10th February 1942, the Japanese troops from the 5th and 18th Divisions, supported by armour, attacked troops of the 11th and 15th Indian Brigades, the 22nd Australian Brigade, the Special Reserve Battalion, Tomforce, Merrett's Force, the Argylls, Jind State Infantry and "X" Battalion.

The Allied forces had to re-group to defend the critical junctions at Choa Chu Kang, Jurong and Clementi Roads leading to Bukit Timah Road.

By dawn of 11th February 1942, the Japanese troops reported to their commander Lieutenant-General Tomoyuki Yamashitathat they had seized Bukit Timah. The road to the city was open.

 

市街地に通ずる幹線であるブキティマロード・デュナーンロードを見下ろすブキティマは、連合軍・日本軍の双方にとって重要地点であった。

1942年2月10日夜、第5師団と第11師団からなる日本軍は、装甲部隊の支援と共に第11インド旅団と第15インド旅団、第22オーストラリア旅団、スペシャルリザーブ大隊、トムフォース、メレットフォース、アーガイルズ、ジンド歩兵大隊、そしてX大隊を攻撃した。

連合軍はブキティマロードへ続くチョアチューカンロード、ジュロンロード、クレメンティロードの主要な交差点を防衛するため再編せねばならなかった。

1942年2月11日の夜明け前、日本軍は彼らの司令官である山下奉文中将宛にブキティマを制したと報告した。市街地へと続く道がついに開いた。

 

…当時の連合軍に関する背景知識がないからスペシャルリザーブバタリオン、トムフォース、メレットフォースがなんなのかよくわからなくてモヤモヤする。

アーガイルズはどうやらアーガイルアンドサザーランドハイランダーズみたい。

 

日本語の説明はもう少しサラッと書かれている。
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ビジターセンター。出入り自由で、2階にはブキティマ山の自然についての展示がある。
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駐車場から道なりに歩むとこの景色が。ビジターセンターを通り過ぎたところに石碑がある。
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ブキバトの忠霊塔(5)と旧フォード工場

引き続き時差投稿…

2020年10月、ブキバトの忠霊塔と旧フォード工場を訪問。

ブキバトの忠霊塔といえども今はもうない。

アッパーブキティマロードからSesuai通りへ入る。

これが目印。

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ここから延々坂道を登っていくとまずこれが。
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英語での説明板。
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「昭南島忠霊塔」

あなたは今かつて昭南忠霊塔ー神社と第二次世界大戦中に戦死した日本兵を讃える戦争記念碑があった場所の付近にいる。

日本軍の最高司令官であった山下奉文がシンガポールの戦いで殺された日本兵を偲んで建設を命じた。

あたり一帯では日本軍と連合国軍で激戦が繰り広げられた場所の1つ。

近くにはパーシヴァル陸軍中将が1942年2月15日に無条件降伏をしたフォード工場がある。

1942年4月末、およそ500−800名の英・豪戦争捕虜が地ならし、駐車場作り、忠霊塔までの階段建設のためにチャンギ収容所より駆り出された。

「昭南忠霊塔」と名付けられた記念碑は40フィートの高さの円柱形の柱で、先端は真鍮の円錐。

セメントと土で作られた2層のプラットフォームの上に建てられ、2つの砂利道が走り、木造フェンスで囲われていた。

また瓦屋根の小さな神社も忠霊塔の足元に建てられ、戦死した日本兵の遺灰が祀られていた。

すぐ後ろには、戦死した連合軍兵士を偲んで質素な10ftの十字架も立てられた。

忠霊塔は1942年9月10日に除幕された。その後3年間にわたり、戦死した日本兵を弔うための祭礼が定期的に行われた。

今日、121段の階段とLorong Sesuaiと名前が変わった参道を除き何も残っていない。モニュメントがあった場所にはテレビ電波塔が立っている。

 

だそうです。

階段の途中、お馴染みの石碑がど真ん中に埋まっている。

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アップ
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こちらの石碑よりも最初の英語の説明書きの方が詳しく書いてあるのでそっちを訳した次第。

 

そしてこちらがすぐ近くにある旧フォード工場。

ロゴがおしゃれ。
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中の展示については掲載しないが、かなり詳しく、そして冷静に解説されている。

今回は時間が押してしまって、全ての展示を見ることができず。。。また行かなきゃ。

 

1つびっくりしたのがレオナール藤田(藤田嗣治)の絵があったこと。

猫の絵のイメージしかなかったので…

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Wikipediaによると

1938年からは1年間小磯良平らとともに従軍画家として日中戦争中の中華民国に渡り、1939年に日本に帰国した。

その後再びパリへ戻ったが、同年9月には第二次世界大戦が勃発。翌年、ドイツにパリが占領される直前にパリを離れ、再度日本に帰国することを余儀なくされた。

その後、太平洋戦争に突入した日本において陸軍美術協会理事長に就任することとなり、戦争画の製作を手掛けた。

南方などの戦地を訪問しつつ『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』(題材はノモンハン事件)や『アッツ島玉砕』(アッツ島の戦い)などの作品を書いた。

このような振る舞いは、終戦後の連合国軍占領下の日本において「戦争協力者」と批判されることもあった。

また、陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることとなり、千葉県内の味噌醸造業者の元に匿われていたこともあった。

その後、1945年11月頃にはGHQに見いだされて戦争画の収集作業に協力させられている。こうした日本国内の情勢に嫌気が差した藤田は、1949年に日本を去ることとなる。

 

だそうで。

チャンギ海岸での虐殺(20)とサジャハット島(21)

引き続き時差あり投稿。

2020年9月にウビン島へ行った帰りにチャンギビーチパークへ足を伸ばした。

 

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いい天気!海沿い歩いて気持ちよかった。やっぱり海っていいな。

 

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こんな南国な景色をエンジョイしつつ、石碑を探す。

2つ並んでいた。

 

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1つはチャンギ海岸での虐殺について。

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このビーチでか…と思いながら読み進める
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英語記載アップ。

そう、今日は2月18日。

粛清が始まったのも1942年の2月18日。なんたる偶然…
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挿絵
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日本語部分アップ。英語と内容は一緒
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こちらはサハジャット島について。
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英語記載アップ。

ジョホール海峡とセンバワン基地を守るためとあるけど、

日本軍にマレー側から侵攻されたのは想定外だったのだろうか

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日本語記載アップ
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写真あり。今はテコン島と地続きになっているらしい。
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のどかな景色…
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プンゴルビーチとチャンギビーチに足を運んで思ったけど粛清とかきっつい話だなと思う。(語彙力)

当時は中華系シンガポーリアンといえど帰属意識は中国にあっただろうし、

抗日工作員と普通の人の見分けなんてつかないという事情もあったんだろうけど

でも中華系だからってだけで殺された人、そしてその家族の気持ちを思うと肯定できないよねぇ

「仕方なかったんだ」とは言えないよ…

人数に関する議論もあるって話だけど、何千人だろうが何万人だろうが殺戮は殺戮よね

戦争が地球からなくなりますように…